暗がりに傘がひらく

知的な文学少年になれないままおじさんになっでしまったんだ

部屋の掃除が出来ない

出来ないまま、1年が経とうとしている。

 

決して時間が無いわけではないが、明らかに、確かに、

休日の自分は部屋を綺麗にしようという社会的モラルが欠落しているのである。

 

水回りの掃除は危機を感じて辛うじて出来ていることは褒めたいが、フローリング、衣類の断捨離、床に積み上がる雑誌/書籍の類い、振り分けられない郵送物、段ボール。

 

何故出来ないのか。考えても仕方ないし、考えているなら少しでもゴミを減らせよと言いたい気持ちをぐっっと堪えて考える。

 

カッコいい言い訳から言えば小綺麗かなと思って先に言うと、

「家が汚いこと自体が抵抗の一種」なのだと思う。

 

ひとたび、玄関の扉を開ければ社会的になんとか外側にメッキをした自分が歩き出していく。

 

その自分と明確に区別したくて、部屋で引き篭もる自分に汚い場所を用意して置いてあげたいのかもなと推察してみています。

 

絶対に散らかっていない綺麗に纏まっていたほうが良い。けれど、その完璧を自分に課すのはどこか苦しい。

 

完璧に理想に沿って生きてるなんてこれっぽっちも思わないけれど、少しだけぐしゃぐしゃしていて、不完全な要素があるほうがよっぽど救われるし、どこか美しいのではと、少しだけ思っている。

 

 

 

さて、普通に言い訳をすると掃除をしようと立ち上がることが最近出来ない。家事が出来ん。能力としては可能なはずだが、身体と精神が付いてこないのである。これが年齢だろうか。

 

やらないと死ぬ理由がないと出来ないのだろうな。

ある意味、部屋が汚くても社会的に死ぬことはない。

服は洗ってないと汚くて社会的にも死ぬから洗濯はできる。

食事は作らなくても売っているからどうにかなる。ただ、金銭的にまたは、健康的に余裕が無くなれば死に瀕して自炊を始めるのだろう。

 

出来ないことにも理由があって、出来るまでにあたっても理由が必要なのである。

理由なくつれづれなるままに生きていきたいと常日頃から懇願している自分からすればしんどい話だ。

 

部屋掃除が出来る様になる解決策として、

自分の部屋を公的スペースにすれば良いという案がある。

そうすれば、人が訪れる場所だから片付けをして綺麗にするが浸透する。

そんな自分も例に漏れず、共用スペースは綺麗に使うのが信条なのである。

 

ただ、それでは自分の人生において汚い場所、肩肘張らなくていい場所が無くなって仕舞うと思っていて、それは耐え難きことである。

 

パーソナルスペース激広おじさんの自分だから、という例外の話ではなく、絶対に多くの人々は、もっと自分しかいなくて自分にひたすら甘えられる場所がないとやっていけないよ、そうでもないと大変だよ、と少しだけ警鐘を鳴らすのです。

 

 

それを鑑みると絶対に次引っ越す部屋は2部屋あったほうが良くって、

ゲロゲロに汚ねえ寝室と、整然とまとまった、おあつらえ向きのリビングダイニング。

 

名前も種も知らない観葉植物を置いてみたりして。