暗がりに傘がひらく

知的な文学少年になれないままおじさんになっでしまったんだ

憧れてしまっては超えられない

2023年ワールド・ベースボール・クラシック決勝前の声出しにて、今や日本の宝となる二刀流、大谷翔平氏の言葉が注目を集めている。

 

憧れるのをやめましょう。

 

憧れるということはひとつ、諦めという意味を含んでいるのかもしれない。

そう思っている背景として、米澤穂信氏の『古典部シリーズ』第3作目となる『クドリャフカの順番』にて心の琴線に触れる言葉が残っていることがあるのだ。

僕は「期待」だとか「憧れ」だとか「尊敬」といった言葉を使うのを躊躇する、なぜならそれは、自分が対象にそうすることしかできないという自分の無力さ、弱さ、諦めを認めてしまうものだと思うから。

それは自分が超えられるだとか傲慢な心情は一切ないものの、そういった結論を自分に対して下してしまうという部分にやるせ無さを感じてしまう。

 

話を『クドリャフカの順番』に戻そう。

この作品では学園祭で起きた謎を解くという過程、主題のなかで、3人の『期待』に遭遇する。

福部里志は「期待」について、下記のように評している。

『自分に自信があるときは、期待なんて言葉を出しちゃいけない。期待っていうのは、あきらめから出る言葉なんだよ。そうせざるを得ない、どうしようもなさがないと、空々しいよ』

 

福部里志が主人公である折木奉太郎に対して成し得た諦めという表現は、何者でもない自分が何者かを認めた時。自分が何者でもないということを自認した期待だと思う。何者かになろうと踠いた末に。

「絶望的な差から期待は生まれる」と、田名辺治朗が評してその歪みを一つのアンチテーゼとした。漫画研の河内先輩は「次も期待してるねなんて言えないじゃない」と期待という感情を否定した。

 

憧れ、期待、尊敬される対象というものは本人の自覚の有無はなく、不特定多数から一目置かれる。それは誰かの人生を運命をプラスにもマイナスにも歪めるのだろう。ただ、それを受け入れて見つめ直すことが「憧れ/期待/尊敬」の次のステップに必要だと思う。それが出来る、できないでどれだけの諦めが救われるのか。