暗がりに傘がひらく

知的な文学少年になれないままおじさんになっでしまったんだ

書くこと、それと、

(※2023.08.16校正済み)

 

自分が、誰かが、何かが嫌で辛くてどうしようもない時、胸が刺さるように痛くて眠れない時、

そんな時は、スーパー銭湯に行って大きいお風呂にゆっくり浸かればいいと思うし、

寿命が縮みそうな甘い物、塩辛い物、脂っこい物を嫌なほどたべればいいと思うし、

そして、今の感情をなにかしらの言葉にして、ブログなんかに纏めてデジタルタトゥーを遺せばいいと思う。

 

ブログを始める時というのは、決まって何かしらに負のエネルギー、アンチテーゼを秘めて還元しているということになる。

 

その時に浮かんだ綺麗な言葉も、汚い愚痴も、昔の人、作家、アーティストのフレーズの引用も、きっとどこかに残しておくべきだし、忘れないでいたいなと思っている。

 

そんな書き物、エッセイ、掃き溜めを新設しようというのが、2千も22年、睦月の決断なのだ。

自分がこういったブログをしたためるのは覚えている限りでは4度目だ。すべてURLも違えば、多分リンクは死んでない。

 

16歳、高校一年に自分が「普通」であると自分なりに自覚して、噛み砕けなかった時

18歳、今まで大切だと、愛しいと思ったものが少しずつ離れて、そんな時に大学受験がやってきた時

21歳、誰でもない誰かに塗り固めた笑顔だけ振り撒いて、人に限りなく大きく嫌気が刺した時

 

そして今回、23歳。

 

これまでの経験則、こういうときはとりあえず、頭に浮かんだことを書いて思慮に耽る真似事をしていれば、なんとなく気持ち良くなるということ。

今日も明日も、生きたいように生きる、細やかな人生への抵抗の録であると思っている。

 

 

 

高野悦子氏の『二十歳の原点』には、それこそ3年前、20歳の時に出会った。

 

20歳の等身大な死生観と、人間関係における苦悩を描いたそれは、生きるとは何か、生きているとは何かを思慮せざるを得ない読了感に包まれた。同氏は若くして電車に身を投げ自死している。

それを読んで、背景を知り、

 

ああ、やはり『書くこと』は慰めであり、

自己愛の所為なのだろうな。

 

と思い、今まで自分が書き物をしていたことに間違いはなかったのだなと心にふっと落ち着いたことを憶えている。

こうした世の中で、弱さを見せて生きるのは簡単だし、強く生きれないのも事実だ。

そんななかでも、自分は何かを綴っておこうと、それで強いフリも、弱いフリもできればいいなと思う。