暗がりに傘がひらく

知的な文学少年になれないままおじさんになっでしまったんだ

三人称視点への誘い

『俺はいいけど、YAZAWAはなんて言うかな?』

 

人間の魅力と強さ、裏返すと弱さはその多面性にある。よくアイデンティティだとか自分を見失うとかなんとか言うけれど、結局のところ人として生きるうえでは誰もが様々な種類の猫を被って生活しているのだと思う。

それは悲しいことでは無くて、自分の人生を幾通りもデザインして演じることができている事なのだと。

ただそれを自分で自分がコントロールできなくなった時に人間は絶望するのかもしれないし、付き合い方次第では薬にも毒にもなる。

ファイナルファンタジーⅦにおいて主人公であるクラウドストライフは諸般の事情により自身の人格が混在している。序盤はそれがひとつの“違和感”でしかなかったものが現実を知り確信と絶望になった。

しかし、それを受け入れて正しく向き合った。そのなかで演じていた自分と本来あったはずの自分と共存して歩みを進めたのである。

演じている自己、結果的にでも嘘をついている自己というものは所詮結果であったりする。大切なのは受け入れて向き合うこと。

その向き合い方は二人称視点では無く、三人称視点であることの意味。

冒頭のYAZAWAと矢沢というふたつの存在を矢沢永吉氏は受け入れるというか生み出したというか、それぞれの視点と三人称視点から俯瞰して自己を意識する。アーティストとしての自己を意識する。

その意識のなかで生まれるのは、

自身が「どう存在すべきか?」という、適応または意志である。

だから演じるもとい、生きるにあたってはその三人称視点と共存して愛していきたい。

なるべく、利己的な選択をしながら。

 

知らんけど。